2005年3月6日

(TEXT)『短編』第31期と雑感

 今読み直すと、この記事、『短編』第31期にはほとんど触れていないような気がしますが……。

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 近頃「ゲームばかりしているので、現実と虚構との区別ができない」と叫ばれています。ところが実際は、ゲームが有識者や年寄りにとって理解不能なため敵視されているのに過ぎない、と考えられます。
 一方小説はというと、「活字離れ」とかいわれる現状下、有識者や年寄りから推奨されています。だからといって小説が常に「正しい」かというと、おそらくそんなことはなく。
 小説もゲームと同等、もしくはそれ以上に若者に対して影響を及ぼしうるのです。良いものは人間を成長させ、悪いものは邪な心を巣くわせる。ただそこで現実に心を悪に支配されるかどうかは、当然別問題でしょう。
 とまあ、誰かの受け売りのようなことをえらそうに書きましたが、31期でお勧めするのは狂気とか破滅とかをきちんと描写している次の二つです。万人に好まれがちな「感じのいいもの」「楽しいもの」を拒絶している作品です。

プルシャに会いに行く るるるぶ☆どっぐちゃん さん
暗い日曜日 曠野反次郎 さん

 一方、『プルシャ』には「美しさ」、『暗い日曜日』には「弱さ」があります。こういう訴えかける何かがある作品こそ評価されるべきだと私は思います。


 ところで、梅田望夫さんが引用している文章をさらに引用します。(現在、梅田さんの元記事はプライベートモードになっていて見ることはできませんでした)

■ 車谷長吉「文士の魂」
「日本の戦後の大衆文学を領導してきたのは、山本周五郎、松本清張、司馬遼太郎の三人だった。」
「周五郎の世界は基本的に諦めと辛苦の生活の先に、一筋の光を見るものである。」
「松本清張の世界は、才能がありながら、学歴がないが故に、世の底に埋もれて生きざるを得ない人達の、怨みと憤りの文学である。」
「周五郎の主人公たちが諦めの底に一筋の光を見出して行くのに反し、清張の主人公たちは自らの運命と闘いながら、絶望と破滅の淵へ沈んで行く。」
「無一物になったころ、清張をくり返し読んだ。いや「慰め」を求めて読まないではいられなかった。」
「司馬の小説は日本歴史の、あるいは日本社会の指導層にある人々を描いたものである。」
「私は司馬文学のそういう臭みを、読む前から嗅ぎ取っていた。だから上司や同僚からいくら「お前も読め。」と言われても、頑として読まなかった。」
「世の大衆はそれぞれに己れの心ざまの色に添うて、これら三人の文学を読んできた。」


 例えば「司馬遼太郎ばかり読んでいたので、会社の理不尽な命令に逆らえなくなってしまった」という感じでしょうか。

 私はエンジニアですし、勤務している会社は製造業なので想像の域を出ないのですが、また過去の話なのかもしれませんが、例えば金融業とかだと、幹部候補社員の出世コースとして香港駐在が位置付けられていたようです。そういうところの「デキる社員」が多いせいでしょう、香港そごうの旭屋書店(当地最大の日本語本屋)には、司馬遼太郎文庫本コーナーが設けられています。遠目から見ただけで分かります――棚が黄色に染まっているのです! 補充にかかる日数を考慮してか、「竜馬がゆく」とか「坂の上の雲」だとか、どの巻も二、三冊ずつ置いてあるし……。車谷の言葉を思い出し、「ご苦労さまです」と感じました。

3 件のコメント:

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