2008年4月5日

(HK)記録

 先にお知らせします。この文、長くなってしまいました。

 基本的に個人的なことがらを、私はここで細々と書きつづっています。自分で言うのもなんですが、そもそも目的なんてあいまいなんです。でも、ここにこのことを書いておかないといけない気がしています。

 日本人の上司が1月に亡くなりました。本当に急でした。前の日まで普通に働いていたぐらいでした。事故ではありません。確かに精力的に動く人で、出張であちこちを飛び回る人で、「大変だなあ、お疲れだろうなあ」と察することはありましたが、まさかその日その朝心臓が動きを止めるとは。
 日本にいたときも、十数年前にアメリカに飛び出してからも、ひたすらこの業界の一線で働いてきたすごい技術者と、こういう形でお別れすることになるとは思ってもいませんでした。残されたご家族のことを思うと、たまらない気持ちになります。

 書きにくいのでここからAさんとします。
 私が前の会社を辞めることにしたとき、いくつかの選択肢がありました。その中で、ある人が「Aさんがいる」という理由で香港を勧めてくれました。その人に取り持ってもらってAさんに会ったときに、とても歓迎してもらったことを覚えています。Aさんの名前は前の会社にいたときから知っていたのですが、実際にお会いしたのは転職する時がはじめてでした。 そういう人のつながり、縁で今に至っています。

 Aさんは今思えば激務で、そしてどんどんと昇進しつづけました。入社当時はAさんと直接仕事のやり取りをすることが多かったのですが、やがてそれはだんだんと減っていきました。仕事を任されるようになったと私は勝手に解釈し、あまり気にはかけていませんでした。大事な用件のときに報告しに行くと、切れのある答えがいつも返ってきましたし。

 でも亡くなってしまいました。張り合いがなくなりました。少し前から実務の面では香港人の上司がいて、彼は優秀で私の働き振りを評価してくれているのですが、Aさんがいないというのは寂しいです。Aさんと香港人の上司で技術的な路線が若干違うというのもあります。私はAさんに近かったのです。
 それよりも、「海外で働く日本人」の大変さだとかやりがいだとかをAさんがわかってくれていた……ということが大きいです。香港人の上司がいくら良くても、そういう役割を彼に求めるわけにはいきません。

 Aさんに香港に招かれた技術者は何人もいます。その中で私はおそらく一番若いです。ある技術分野でAさんに近かったので、今は最後の弟子だと勝手に思っています。この業界のことなら本当に何でも知っている人でした。記憶力がずば抜けていました。かなりの人数の関係者の電話番号を暗記していたというエピソードもあります。昼夜問わず電話がかかってくることも、香港に来た当時はありました。

 亡くなってから、ふと気になってAさんの名前でググってみました。「おくやみ」が出ていた形跡がありません。死後に日経新聞に載ることにどれほど意味があるかというと、疑問なのですが。でも、もし東証に上場している日本の会社の役員だったら、たとえそれがどんなに小さい会社の場合でも載せるでしょうし、いやこうした議論がとても矮小なものであることは分かっています。
 しかし本当にすごい技術者だったんです、そういう人と私は働いていたんです。改めて権威から裏づけされなくてもその事実は変わらない、それはそうなのですが、とても大きな存在だったので、私はそれを何とかして「喪失の補償」したいと願っている、そう自分で自分を分析します。カッコ内、適当な言葉が思い当たりません。

 ここにこういう文章を書いているのもその一環でしょうし。そもそも心の中に秘めておいて、思わせぶりなことをここに書き散らさなくても良かったわけですし。だとすると、冒頭にもどりますが、このように気持ちの整理をつけるということが文章の目的なんでしょう。

 ググった結果ですが、引っかかったのはAさんが出したいくつもの特許だけでした。残念ながら私はAさんと共同で特許を出したことがなく、そもそも特許自体を書いたことがありません。関係ないですが、Aさんと撮った写真もありません。
 最後の弟子なら、それらしく精進しないといけない、と思っています。