2005年6月5日

(TEXT)土曜日、麻紀さんと (作者: (あ))


 土曜日に会社に行くのはキライじゃない。周りからの雑音はなく、試作ボー
ドの順番待ちもない。あのダサい緑色の作業服を着る必要もないし、かかとの
高い靴を履いていてもとがめられることはない。今は午後4時、今日はお気に
入りのキレイな色のカーディガンとスカートを履いてきたので、これからこの
後気分よく出かけられる。
 ブースの中でがりがりとコードを書いていた。最後にクリックする。青色の
バーが画面の下のほうに出てきた。それは徐々に右側へと伸びていく。パーセ
ント表記は50%、60%、そしていつものように70%で固まった。私は右
手で左肩をもみ、そのあと逆の手で反対の肩にも同じようにしてみた。
「私が揉んであげようか、仁科さん」
 突然声がしたので、見てみると、麻紀さんがブースの壁の上に顔をのぞかせ
ていた。ちょっと驚いた。麻紀さんも出社してたんだ……。全然姿を見なかっ
たような気がするけど。

 私がこの部署に来たのは一月ほど前で、それまでかの有名な麻紀さんとは話
したことはなかった。今では同じプロジェクトをしているので、一応会話はあ
るが、ほとんどが仕事の話で。ミーティングの場だったりしたし。そんなわけ
で麻紀さんと二人きり、というのは今日が初めてだ。
 麻紀さんは私の隣のブースから椅子を引っ張り出し、腰掛ける。
「仁科さん、どう、この部署は? 前より忙しいでしょう?」
「ええ」
 私は曖昧に頷いてみた。あえて言うなら予想の範囲内、そんな質問だったの
で。
「もう土曜日も来ているんだ、浜中君はキビシイ?」
「いえ、浜中さんに言われたわけではなくて……、前の職場でも時々土曜日に
来てましたし」
「そうなんだ。熱心だねえ、仁科さん」
 私の上長であって麻紀さんの彼氏(というか端的にオトコ)であるところの
浜中さんは、きっと私の休日出勤なんか知らないはずだ。それから私が麻紀さ
んと浜中さんの関係に気付いていることも。

 向かいに座る麻紀さんは作業服を着ている。首からは社員証をぶら下げてい
る。女性社員の場合、顔写真入りのそれを恥ずかしがって胸ポケットにしまう
人が多いのだが、麻紀さんはそんなことなどしていない。それは数年前の写真
だから確かに少し若いが、麻紀さんは頓着していないように見える。全く、昔
も今もキレイな人だから……。加えて仕事も英語もメチャクチャできる、スゴ
イ人だから。私がこの部署に異動になると話すと、
「麻紀さんと働けるのか、いいなあ」
 なるたわごとを言った同期の男もいた、そういえば。
 そんなことをちょっと思い出していると、麻紀さんは作業服のポケットに無
造作に手を突っ込んで、小箱を取り出した。そして、
「ねえ、仁科さん、チョコレートを食べない?」
 とすすめてきた。見ると高価そうなブランドのものだった。
「え、あ、いただきます」
「頭脳労働しているんだから。甘いものがいいっていうし」
「麻紀さんもよく食べるんですか?」
「私はあんまり食べないんだけれど……」
 麻紀さんは微笑んでいる。

 チョコレートにはブランデーか何かが入っていたようで、お酒の弱い私は即
座に反応してしまったようで。なんだか不思議な気分になってきた。
「昔は浜中君もよく土曜日に来ていたんだけど」
 麻紀さんは言う。続けて、
「ほら、今、赤ちゃん生まれたでしょう、浜中君のところ。やっぱり休みの日
ぐらいは家にいないと」
 と私のほうを向いて語る。麻紀さんはとても無邪気か無防備だ。私は浜中さ
んが妊娠中の奥さんを放って、麻紀さんと関係を持っていたことを知っている
のに。それともやっぱり、スゴイ人はこういうことにも頓着しないなのか。木
を隠すなら森に。何か違う……。
「もう一つどう? 仁科さん」
「ありがとうございます」
 箱から麻紀さんがチョコを取り出す。ぼんやりと私は麻紀さんの手を見た。
細い指の先の爪がきれいに切りそろえられている。確かにキーボードを打ち続
けるのに長い爪は邪魔だろうけれど、それにしてはそっけなさすぎるような気
がする。
 突然イヤラシイ想像をしてしまった。傷つけないように心遣いされた指……
浜中さんはベッドの上の麻紀さんにすっかりトリコになってしまったのかなあ
って。もしそれがそうなら、ベッドの上だけではないだろう、きっと。いや待
て、ちょっとおかしいぞ、今の私……。
「どうしたの、仁科さん」
「あの、私そろそろ帰るんですけど、明るい時間に会社から帰るのなんて珍し
いなあ、なんて思ったんです。今日土曜日なのに。おかしいですよね」
 繕おうとするとたくさん言葉が出てきてしまった。
「チョコにはフェニルエチルアミンが含まれているから、ね」
 麻紀さんは片目をつぶって私にサインを送ってきた。化学物質名っぽいそれ
が何を意味するのか、私には分からないが、ああもう、ただ麻紀さんはすごい
なあと思うばかりだ。

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