2004年1月5日

太郎……作者(あ) (2004.01.05; 1339文字)


 昼下がりのJR神戸線の車内に年配の男性と男の子がいる。年配のほうは
師匠と呼ばれている。白髪だもんだから髭も当然白くって、でも背筋はわり
とピンとしている年齢不詳の人物だ。電車は京都、大阪、三宮と着実に進ん
でいるけれども、師匠の話は依然同じところをぐるぐると回っている。曰く、
最近少年犯罪や中年男性の自殺が著しく増加していると。そしてそれらは全
て、現代日本人が男らしさを拒絶しているからなのだと。
「だが、太郎、お前は本当の日本男児だ」
 もう一方は太郎と呼ばれている。彼は浅黒い肌と敏捷そうな長い足を持つ
小学校の高学年ぐらいの年頃の男の子だが、実のところ彼の名は太郎ではな
く、また彼は日本語を解するけれども日本人ではなかった。結局のところ彼
にとって師弟ごっこやつまらない説教といったものは、三度の飯というテイ
クに対するギブ、ただそれに過ぎない。
「聞いているか、太郎」
 それでも太郎にはなかなか鋭いところがあり、この問いかけに対してもす
らすらと師匠が納得するような返事をした。師匠は満足げに頷いている。車
内にまもなく舞子駅に到着するというアナウンスが流れた。いよいよ二人の
戦いが始まる。

 ホームに降り立った二人は無言で階段を上り、改札に向かう。太郎は師匠
の言葉を思い出す。自動改札機は人間に飼いならされた猛獣なのだ。その証
拠に、気に食わない客に対しては容赦なく突っかかってくるものなのだ。
 二人はその猛獣たちを横目で見ながら有人改札口へと向かう。師匠と太郎
という珍奇な年齢および人種構成は、周りの人々を疑わせるのに十分なよう
で、駅員はカウンタの窓から顔をのぞかせ、二人が近づくのを待っている。
 突然師匠は駅員にポルトガル語で質問する。いぶかる駅員になおも言葉の
つぶてを投げ続ける。太郎はその隙に師匠の後ろを通って改札を突破し、高
速舞子めがけて走る。駅員が太郎に気づいてなにやら叫ぶと、今度は師匠が
駅員の顔をめがけて切符を叩きつける。二枚の子供初乗り運賃の切符だ。そ
して、太郎の後を追いはじめる。
 JR舞子駅の東側には、明石海峡大橋の巨大な橋桁とそれが支える交通動
脈が見える。太郎は高速舞子の「洲本・徳島行きバス乗り場」という誘導に
従ってエスカレーターを駆け上がる、登りきる。師匠が言うところの科学技
術のかたまり、その上にやってきた。自動改札機とは異なり、ここでは人間
が技術に飼いならされている。自分は違う、と太郎は考える。そして従順に
バスを待っている人々を無視し、高速道路に飛び出していく。周りの車は百
キロ以上の猛スピードだ。轟音を上げて走っている。バスレーンが本線に合
流するところまでやってきた。うまい具合に一番左の車線には車が走ってい
ない。太郎はストライドを大きくしてなおも走り続ける。足の隅々にまで元
気よく血液が流れ始めたのを感じる。
 太郎が振り返ると、ビデオカメラを構えた師匠がバス乗り場のところに見
えた。次の瞬間、師匠は追いかけてきた駅員たちにもみくちゃにされる。太
郎はもう後ろを振り返らず、路肩を走ることに専念する。太郎の正面にはこ
んもりとした緑の淡路島が見え、左右には光を受けて輝く瀬戸内海。こうや
って走り続けていると、景色に加えて何か別のものも見えてくるかもしれな
い。

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