http://blog.livedoor.jp/nishina0/archives/51432510.html
http://blog.livedoor.jp/nishina0/archives/51433468.html
今見たら、西直さんのところでお話が増えていました! 女の子の着ぐるみトナカイ、いいと思います。
「というわけで、着ぐるみについてなんだけど」
「はあ」
「あ、その前に、ええと、さっきサンタが通りを練り歩いてたでしょ」
「はい、男サンタと女サンタでした」
「女サンタのスカートは妙に短かったよね」
「短かったです」
「あの着ぐるみっていうかコスプレっていうか、どうかなあ」
「私にあの格好をしろ、ということでしょうか」
「いえ、あれは西洋人がやるほうがうけがいいから」*1
「そうですか」
「というわけで、着ぐるみについてなんだけど」
「サンタじゃないんですね、つまり」
「そう、サンタじゃない」
「じゃあ、トナカイですか」
「トナカイの着ぐるみは、いまいち分かりにくいと思うんだ」
「確かに」
「うちの製品でもないし」
「……」
「宣伝効果を考えたら、クリスマスツリーの着ぐるみ! これしかありえないでしょ」*2
「……学芸会以下ですね」
*1
サンタのコスプレをするバイトは、人種によって時給が違うらしい。
*2
こういうストーリーがあったかどうかは分かりませんが、クリスマスツリーの着ぐるみを本当に目撃しました。IKEAの前でした。
2008年12月26日
2008年12月18日
カメラを持って街に出ました。
子供の写真を撮る目的でしたが、偶然テレビドラマの撮影に出くわしたので写してみました。右端に俳優さんと女優さんがいます。九龍の尖沙咀から、香港島側を望んでいます。
香港にはテレビ局は二つあり、その二つが二つずつチャンネルを持っています。けれどもそこが製作する番組は、お世辞にもレベルが高いとはいえません。
香港では映画はステータスを持っていて、出演する人や監督は芸能人としてちやほやされています。一方、テレビドラマにはそういった有名人が出演することはまれで、テレビ局の専属契約らしき人々が何度も使いまわしされている様子です。どちらが原因でどちらが結果かわかりませんが、二つのテレビ局では結構な頻度で日本や韓国のテレビドラマを吹き替えでやっています。
撮影の横を通り過ぎた時に、私はテレビ局のマークの入ったカメラを確認しました。その後しばらく歩いて、少し離れたところからこの写真を撮りました。周りにそれなりに人がいましたが、誰も撮影に興味を持っていないようでした。この辺からも人気のなさが伺えます。
2008年12月6日
(HK)結婚式に出席しました。
この11月と12月は中国の暦的に結婚に向いているそうで、たくさんのカップルが式を挙げます。私も二組の式に出ます。
どの組も時間をかけて準備をしてきたようです。婚前によくあるのは、アルバム作成というイベントです。海を山を湖を林をバックに、カメラマンが様々な服を着た二人の写真をばしばし撮るのです。式の半年から一年前に、台湾にいってこの行事をとりおこなうというのが普通です。
結婚式はというと、血縁を大事にする中国人だけあって、やはりまだ家と家とを結びつけるという考えが大事にされているように見えます。日本だったら一次会と二次会と分けたり、またシンプルな式とかもあるのでしょうが、香港では一回、そこに親戚も友人も会社の人もみんなまとめて呼んで開きます。
結婚式の料理は、当然のように中華です。大変美味しい料理でした。で、思ったことを。
一番初めに、子豚の丸焼きが運ばれてきました。うつ伏せになった豚が大きな皿の上に四肢を広げています。皮はいい照りの色です。子豚の顔のほうをみると、目の部分が大きくくぼんでおり、なぜかはわかりませんが、そこに赤い電球が差し込まれていました。
この料理が運ばれてくるときには、会場が薄暗くなり、これもよくわからないのですが「サル・ゴリラ・チンパンジー」という替え歌でおなじみの「クワイ河マーチ」が聞こえてきたのです。選曲に意味なんてないのでしょう。行進曲の流れる中、赤い目をぴかぴか光らせて子豚たちは各テーブルへと散っていったのでした。
どの組も時間をかけて準備をしてきたようです。婚前によくあるのは、アルバム作成というイベントです。海を山を湖を林をバックに、カメラマンが様々な服を着た二人の写真をばしばし撮るのです。式の半年から一年前に、台湾にいってこの行事をとりおこなうというのが普通です。
結婚式はというと、血縁を大事にする中国人だけあって、やはりまだ家と家とを結びつけるという考えが大事にされているように見えます。日本だったら一次会と二次会と分けたり、またシンプルな式とかもあるのでしょうが、香港では一回、そこに親戚も友人も会社の人もみんなまとめて呼んで開きます。
結婚式の料理は、当然のように中華です。大変美味しい料理でした。で、思ったことを。
一番初めに、子豚の丸焼きが運ばれてきました。うつ伏せになった豚が大きな皿の上に四肢を広げています。皮はいい照りの色です。子豚の顔のほうをみると、目の部分が大きくくぼんでおり、なぜかはわかりませんが、そこに赤い電球が差し込まれていました。
この料理が運ばれてくるときには、会場が薄暗くなり、これもよくわからないのですが「サル・ゴリラ・チンパンジー」という替え歌でおなじみの「クワイ河マーチ」が聞こえてきたのです。選曲に意味なんてないのでしょう。行進曲の流れる中、赤い目をぴかぴか光らせて子豚たちは各テーブルへと散っていったのでした。
2008年12月4日
[Japan]再生紙グローバルカレンダー 2009年・デスクトップ を買いました。
先日久しぶりに日本出張となり、難なく入手することができました。
今回の出張は香港人の上司と二人でした。ミーティングのため、秋葉原に向かいました。寒い中メイドの格好をした人たちが何かを配っていました。上司は物珍しそうに見ていましたが、私に質問はしませんでした。何ともいえぬ雰囲気のまま、人ごみをかき分けずんずん歩きました。
ミーティングは無事に終わり、今度は二人で夕食をとることにしました。彼が「何でもいい」というので、魚介系の居酒屋に入りました。実は香港人の上司と私という組合せで出張するのは初めてで、そもそもその二人だけで食事をするというのも初めてでした。なので、その店で典型的なサラリーマントーク、
「だからそこが会社の問題だって言ってんだよ」
「俺が若いときはさあ」
「あいつはそこがわかってないんだ」
を展開することになるとは、全く予想できなかったのです。上司が何か言ったときに、反射的かつ感情的に「That's why ...」とか。単なる酔っ払いです。
ホテルに戻った後、コンビニに買出しに行きました。ビジネス街の中にあるそのコンビニは、夜遅くになると全然お客がいません。国際電話のカードを買っておこうと思い、カウンターで問うと、不思議な言葉が返ってきました。店員の名札をみると「りょう」と書いてあります。そこで気づきました、留学生の人がバイトしているんですね。
「りょう」というのは「梁」だと予想します。で、広東語では「梁」はLeung(りょん)と読み、ベスト10に確実に入るであろう、ありがちな名字です。「香港から留学して、コンビニのバイトで苦労しているのだろうなあ」なんていうストーリを勝手に作って、勝手に応援したりしました。
今回の出張は香港人の上司と二人でした。ミーティングのため、秋葉原に向かいました。寒い中メイドの格好をした人たちが何かを配っていました。上司は物珍しそうに見ていましたが、私に質問はしませんでした。何ともいえぬ雰囲気のまま、人ごみをかき分けずんずん歩きました。
ミーティングは無事に終わり、今度は二人で夕食をとることにしました。彼が「何でもいい」というので、魚介系の居酒屋に入りました。実は香港人の上司と私という組合せで出張するのは初めてで、そもそもその二人だけで食事をするというのも初めてでした。なので、その店で典型的なサラリーマントーク、
「だからそこが会社の問題だって言ってんだよ」
「俺が若いときはさあ」
「あいつはそこがわかってないんだ」
を展開することになるとは、全く予想できなかったのです。上司が何か言ったときに、反射的かつ感情的に「That's why ...」とか。単なる酔っ払いです。
ホテルに戻った後、コンビニに買出しに行きました。ビジネス街の中にあるそのコンビニは、夜遅くになると全然お客がいません。国際電話のカードを買っておこうと思い、カウンターで問うと、不思議な言葉が返ってきました。店員の名札をみると「りょう」と書いてあります。そこで気づきました、留学生の人がバイトしているんですね。
「りょう」というのは「梁」だと予想します。で、広東語では「梁」はLeung(りょん)と読み、ベスト10に確実に入るであろう、ありがちな名字です。「香港から留学して、コンビニのバイトで苦労しているのだろうなあ」なんていうストーリを勝手に作って、勝手に応援したりしました。
2008年11月23日
[HK]再生紙グローバルカレンダー 2009年・デスクトップ を買いたいです。
毎年愛用している無印良品のグローバルカレンダーが、香港の店舗に見当たりません。それ以外の2009年のカレンダーは普通に売っています。日本の休日のみを載せているカレンダーを香港で売るぐらいだったら、グローバルなものを扱えばいいのに、と思います。そもそも、日本が明日、祝日であるのもグローバルカレンダーのおかげで知ることができたのです。日本の秋は本当に祝日が多くていいですね……と毎年ひがみが入ります。
そういえば円高で、日本のものは何でも高くなっているんでした。おまけに景気の悪化を当地ではひしひしと感じます。何とかという大公司(大会社)が何十人を解雇する、というニュースを毎日のようにやっています。
この前、山火事を見ました。夕方、数十階もある高層住宅の真後ろの山が燃えていました。暗闇の中で稜線がはっきりと浮かび上っていました。
まとまりがないですが、元気でやっております。
そういえば円高で、日本のものは何でも高くなっているんでした。おまけに景気の悪化を当地ではひしひしと感じます。何とかという大公司(大会社)が何十人を解雇する、というニュースを毎日のようにやっています。
この前、山火事を見ました。夕方、数十階もある高層住宅の真後ろの山が燃えていました。暗闇の中で稜線がはっきりと浮かび上っていました。
まとまりがないですが、元気でやっております。
2008年9月28日
(HK)謎の組織「朋友」とは、および中国語における「誇り」について
「朋友」は「ともだち」の直訳でした。「20世紀少年」が日本語そのままのタイトルで香港でも上映されるそうです。街中を走るバスにラッピング広告されていました。
「謎の組織・パンヤオ」と広東語読みすると、これはこれで怪しさが出るなあ、なんて思いました。
ここ数日は神舟七号の話題を新聞・テレビでよく見ます。中国人が初めて宇宙遊泳をしたそうです。この文を書く前に日本語のサイトを見て回っていますが、全く触れられていません。
10月1日は中国の国慶節です。今年は北京オリンピックと宇宙開発の成功があったので、大盛り上がりになることでしょう。
ところで、中国語の愛国的な文脈でよく出てくる「驕傲」という言葉についてちょっとした疑問があります。日本語的に解釈すると、おごり高ぶるの「驕り」、ごう慢の「傲」ですからいい意味にはなりません。しかし、中国語では「誇り」というポジティブな意味を持つように感じられます。私は中国語を学んだことがなく、あくまで観察した範囲内のことですが。
例えば「神舟 驕傲」で検索すると、
神舟七號,我為你驕傲!
が引っかかり、それに続いて、
中華民族的心連在一起 や 全世界中國人揚眉吐氣
などと書かれているので、神舟七号が中華民族の「誇り」なんだろうなあ、と推察されます。
あ、でも、「眉を揚げて」というのは一体どういう心理状態なんでしょう。
謎は謎を呼びます。
「謎の組織・パンヤオ」と広東語読みすると、これはこれで怪しさが出るなあ、なんて思いました。
ここ数日は神舟七号の話題を新聞・テレビでよく見ます。中国人が初めて宇宙遊泳をしたそうです。この文を書く前に日本語のサイトを見て回っていますが、全く触れられていません。
10月1日は中国の国慶節です。今年は北京オリンピックと宇宙開発の成功があったので、大盛り上がりになることでしょう。
ところで、中国語の愛国的な文脈でよく出てくる「驕傲」という言葉についてちょっとした疑問があります。日本語的に解釈すると、おごり高ぶるの「驕り」、ごう慢の「傲」ですからいい意味にはなりません。しかし、中国語では「誇り」というポジティブな意味を持つように感じられます。私は中国語を学んだことがなく、あくまで観察した範囲内のことですが。
例えば「神舟 驕傲」で検索すると、
神舟七號,我為你驕傲!
が引っかかり、それに続いて、
中華民族的心連在一起 や 全世界中國人揚眉吐氣
などと書かれているので、神舟七号が中華民族の「誇り」なんだろうなあ、と推察されます。
あ、でも、「眉を揚げて」というのは一体どういう心理状態なんでしょう。
謎は謎を呼びます。
2008年7月27日
(HK)暑いなか、リトルリーグの試合を見ました。
先週こちらは大変よく晴れて、連日35℃近くまで上がっていました。ちょうど一週間前の日曜日もとても暑い日でした。その日、私はリトルリーグの野球の試合を観戦に行きました。
行われていたのはアジア・パシフィック・トーナメント2008というもので、アメリカで行われるチャンピオンシップの代表を決める大会です。アジアと名のつく大会ですが、日本は少年野球の強国なので独自に代表を送ることができるため、それ以外の近隣の各国の代表が集まりました。日本で言うところの中学一年生ぐらいが上限の年齢でした。
その中で私は香港代表の応援をしていました。日曜日、香港はタイと対戦しました。
香港代表は混成チームです。香港のリトルリーグの中から優れた選手を選び出し、この大会のために練習を重ねてきたそうです。リトルリーグには色々な国籍・人種のチームがあるので、香港代表も自然と多国籍というか多人種な顔ぶれになりました。タイ戦では欧米系の速球派投手が先発しました。中国人っぽい選手がホームランを打ったり、日本の名字の選手がセーフティバントを決めたり、カオス的な面白さがありました。そして打線の爆発でタイに10:4で勝利しました。
一方タイ代表はというと、見た感じでは半分以上が日本人っぽいラインナップでした。タイには日本人家族がたくさん駐在している一方、当地では残念ながら野球は盛んではないのでしょう。多分競技レベルも高くなくて。私が見た限りではインドネシア代表もそんな感じでした。
結局香港代表はグループリーグでライバルと目されていた韓国・台湾を下し、全勝でアメリカへの切符をかけて決勝戦へと進みました。最後の試合は木曜日、対グアムでした。しかし残念ながら、ここで香港代表は敗れてしまったのです。
一試合観戦したときに、私は混成チームの面白さをプレイ以外にも感じることができました。ピンチになったときに欧米系ピッチャーに日本人野手が駆け寄って励ましたり、グラウンド外では選手の活躍に感動して色々な人種の親たちが一緒に喜び合っていたり。私は一観客で香港リトルリーグの関係者ではなかったので、遠目で様子を見ていただけでしたが、そういうコミュニケーションが長く続けばいいな、と思ったのです。
アメリカまでその空気を持っていくことはできませんでした。けれども選手にとっては貴重な体験になったことでしょう。国際交流というと大きなお題目になってしまって、正直私にはよく分かりません。でもこういうのは本当にいいと感じました。
来年も期待しています。
行われていたのはアジア・パシフィック・トーナメント2008というもので、アメリカで行われるチャンピオンシップの代表を決める大会です。アジアと名のつく大会ですが、日本は少年野球の強国なので独自に代表を送ることができるため、それ以外の近隣の各国の代表が集まりました。日本で言うところの中学一年生ぐらいが上限の年齢でした。
その中で私は香港代表の応援をしていました。日曜日、香港はタイと対戦しました。
香港代表は混成チームです。香港のリトルリーグの中から優れた選手を選び出し、この大会のために練習を重ねてきたそうです。リトルリーグには色々な国籍・人種のチームがあるので、香港代表も自然と多国籍というか多人種な顔ぶれになりました。タイ戦では欧米系の速球派投手が先発しました。中国人っぽい選手がホームランを打ったり、日本の名字の選手がセーフティバントを決めたり、カオス的な面白さがありました。そして打線の爆発でタイに10:4で勝利しました。
一方タイ代表はというと、見た感じでは半分以上が日本人っぽいラインナップでした。タイには日本人家族がたくさん駐在している一方、当地では残念ながら野球は盛んではないのでしょう。多分競技レベルも高くなくて。私が見た限りではインドネシア代表もそんな感じでした。
結局香港代表はグループリーグでライバルと目されていた韓国・台湾を下し、全勝でアメリカへの切符をかけて決勝戦へと進みました。最後の試合は木曜日、対グアムでした。しかし残念ながら、ここで香港代表は敗れてしまったのです。
一試合観戦したときに、私は混成チームの面白さをプレイ以外にも感じることができました。ピンチになったときに欧米系ピッチャーに日本人野手が駆け寄って励ましたり、グラウンド外では選手の活躍に感動して色々な人種の親たちが一緒に喜び合っていたり。私は一観客で香港リトルリーグの関係者ではなかったので、遠目で様子を見ていただけでしたが、そういうコミュニケーションが長く続けばいいな、と思ったのです。
アメリカまでその空気を持っていくことはできませんでした。けれども選手にとっては貴重な体験になったことでしょう。国際交流というと大きなお題目になってしまって、正直私にはよく分かりません。でもこういうのは本当にいいと感じました。
来年も期待しています。
2008年7月10日
(HK)やっぱり千昌夫であっていた、および『紅日』について
いつまでも自分が最年少ということはなく、最近はもっと若い人が香港に来ています。そんな二人を連れて街に向かいました。一人は香港に来て日が浅かったので、観光客もよく訪れる屋台街に行くことにしました。明らかなニセモノだとか意味の分からないみやげ物だとか冷やかしながら通り抜けていくと、公園に出ました。スピーカーから音楽を流れています。お年寄りがそれにあわせて踊っています。聞いたことのある音楽です。
「これって、『北国の春』だよね」
私は「日本の歌って、よくこっちの歌手がカバーするんだよね」という返事を用意しつつ問いかけたところ、何と二人とも『北国の春』を認識しませんでした。ショックのあまり、流れてくるメロディーに合わせてさびの部分を歌ってしまいました。
確かに私は二人より年上です。けれども、だからといって私だってリアルタイムでその曲を聴いたわけではないし、別に昭和歌謡が好きなわけでもないし。でも知っていても不思議ではないぐらいのメジャーな曲だと思うのですが。
この後「誰の歌でしたっけ」という話になり、私は自信はなかったのですが「千昌夫じゃない?」と答えたのです。どうやら正解だったようです。
昔のことを思い出したので書きます。
日本のバラエティ番組に、外人さんの反応を見て楽しむというジャンルがあると思います。外人さん本人はいたってまじめなのですが、文化の差が笑いにつながります。ここ香港で、部署の忘年会という小さな場ではありましたが、私は外人としてその手の企画に出たことがあります。
ヘッドフォンをさせられ、広東語の歌を聞かされました。広東語は分からないのにも関わらず、曲に合わせて歌えという指示がでました。私は早口な歌詞を聞き取り、それっぽく口にします。当然何を言っているか分からない状態になり、周りで見ている香港の人たちは大盛り上がりでした。「日本人が何という歌を歌っているかあてるゲーム」です。盛り上がったのはお金をかけているからです。
何曲か適当に歌い、不思議と楽しい気持ちになってきました。注目されていたせいでしょうか。そんな時流れてきたのが『紅日』です。大事MANブラザーズバンドの『それが大事』を、黄色い髪でおなじみ李克勤がカバーしたものです。
歌いました。日本語で、一語一語はっきりと、自分に言い聞かせるように。投げ出さないことと逃げ出さないことの順番が分かりませんでしたが構わずに。
私はひねくれた人間です。例えば(いきなり飛びますが)『世界で一つだけの花』が好きではありません。かつて酔った上司がそれを歌い、それだけならまだしも「さあ一緒に歌おう」と私をステージに引っ張っていこうとするものだから、瞬時に無言で腕を組んで寝たふりをしたぐらいです。今思い起こしても腹が立ちます。そもそもその歌詞の趣旨からすると、他人に同調を求める行動はありえないと思うのですが。
そういうわけで、個人的に『それが大事』はありえない選曲なのですが、その局面では本当に楽しく歌えました。歌いながら香港にいる自分を感傷的に見つめなおしてみたり、なんだかありがちですが。完全に自分の歌声に酔っていました。
「これって、『北国の春』だよね」
私は「日本の歌って、よくこっちの歌手がカバーするんだよね」という返事を用意しつつ問いかけたところ、何と二人とも『北国の春』を認識しませんでした。ショックのあまり、流れてくるメロディーに合わせてさびの部分を歌ってしまいました。
確かに私は二人より年上です。けれども、だからといって私だってリアルタイムでその曲を聴いたわけではないし、別に昭和歌謡が好きなわけでもないし。でも知っていても不思議ではないぐらいのメジャーな曲だと思うのですが。
この後「誰の歌でしたっけ」という話になり、私は自信はなかったのですが「千昌夫じゃない?」と答えたのです。どうやら正解だったようです。
昔のことを思い出したので書きます。
日本のバラエティ番組に、外人さんの反応を見て楽しむというジャンルがあると思います。外人さん本人はいたってまじめなのですが、文化の差が笑いにつながります。ここ香港で、部署の忘年会という小さな場ではありましたが、私は外人としてその手の企画に出たことがあります。
ヘッドフォンをさせられ、広東語の歌を聞かされました。広東語は分からないのにも関わらず、曲に合わせて歌えという指示がでました。私は早口な歌詞を聞き取り、それっぽく口にします。当然何を言っているか分からない状態になり、周りで見ている香港の人たちは大盛り上がりでした。「日本人が何という歌を歌っているかあてるゲーム」です。盛り上がったのはお金をかけているからです。
何曲か適当に歌い、不思議と楽しい気持ちになってきました。注目されていたせいでしょうか。そんな時流れてきたのが『紅日』です。大事MANブラザーズバンドの『それが大事』を、黄色い髪でおなじみ李克勤がカバーしたものです。
歌いました。日本語で、一語一語はっきりと、自分に言い聞かせるように。投げ出さないことと逃げ出さないことの順番が分かりませんでしたが構わずに。
私はひねくれた人間です。例えば(いきなり飛びますが)『世界で一つだけの花』が好きではありません。かつて酔った上司がそれを歌い、それだけならまだしも「さあ一緒に歌おう」と私をステージに引っ張っていこうとするものだから、瞬時に無言で腕を組んで寝たふりをしたぐらいです。今思い起こしても腹が立ちます。そもそもその歌詞の趣旨からすると、他人に同調を求める行動はありえないと思うのですが。
そういうわけで、個人的に『それが大事』はありえない選曲なのですが、その局面では本当に楽しく歌えました。歌いながら香港にいる自分を感傷的に見つめなおしてみたり、なんだかありがちですが。完全に自分の歌声に酔っていました。
2008年7月6日
(HK)香港は7月1日が休みで、アメリカは7月4日が独立記念日で。
愛用している無印良品のカレンダーには複数の国の休日が記されているので、そのことを思い出したのですが。独立記念日といえばホットドッグです。小林さんが今年も出場して、準優勝だったそうです。
数年前に小林さんは香港の大食い大会に招かれたことがあって、その際に子供と一緒に見に行きました。私が着いた時には試合は終わっており、小林さんはインタビューを受けていました。その内容は記憶に残るようなものではありませんでしたし、私自身別に大食いに興味があるわけでもありませんが、それから小林さんは気になる存在になりました。信念を持って競技を続けている、そう感じて、その一点のみ強く興味を惹かれたのです。
去年小林さんは連覇を阻まれました。あごの関節症が明らかになったり、リバースしてしまったことが面白おかしく取り上げられたりもしました。
独立記念日に気付いた私は、今週彼のブログを訪ねたのです。今年も出場すると書いた記事を見つけたときには、少し興奮して高速に文を追いかけてしまい、読解が追いつきませんでした。
冷静に読み直してみると、改めて彼の信念に触れられる個所がありました。今年はルール改正があって、制限時間が12分から10分へと2分短縮されたそうです。小林さんは昔の自分と比べられなくなる、とその変更を非常に残念がっていました。その姿勢はまさに、スポーツ選手のそれと同じだと感じました。
今年の試合は去年のチャンピオンとの死闘になり、規定の10分で決着がつかず、プレーオフになって最後小林さんは敗れてしまいました。残念な結果ですが「全力でやった気持ちよさがある」と記事にはあります。そうなんだろうなあ、と思います。
この一連の小林さんの活動について、私は信念がある、と考えています。一方、猛烈に話はすっ飛びますが、インターネット上では、ただ単にギャラ目当てだと見下したり、そもそも大食いなんて倫理的に間違っていると批判したりする風潮があるような気がします。悪口のほうが幅を利かせるメディアなんでしょう。
それよりも自分は、どちらかといえばポジティブに評価したいし、多様な考え方を受け入れたいし、インターネットもそういう場所であってもらいたいと思います。
数年前に小林さんは香港の大食い大会に招かれたことがあって、その際に子供と一緒に見に行きました。私が着いた時には試合は終わっており、小林さんはインタビューを受けていました。その内容は記憶に残るようなものではありませんでしたし、私自身別に大食いに興味があるわけでもありませんが、それから小林さんは気になる存在になりました。信念を持って競技を続けている、そう感じて、その一点のみ強く興味を惹かれたのです。
去年小林さんは連覇を阻まれました。あごの関節症が明らかになったり、リバースしてしまったことが面白おかしく取り上げられたりもしました。
独立記念日に気付いた私は、今週彼のブログを訪ねたのです。今年も出場すると書いた記事を見つけたときには、少し興奮して高速に文を追いかけてしまい、読解が追いつきませんでした。
冷静に読み直してみると、改めて彼の信念に触れられる個所がありました。今年はルール改正があって、制限時間が12分から10分へと2分短縮されたそうです。小林さんは昔の自分と比べられなくなる、とその変更を非常に残念がっていました。その姿勢はまさに、スポーツ選手のそれと同じだと感じました。
今年の試合は去年のチャンピオンとの死闘になり、規定の10分で決着がつかず、プレーオフになって最後小林さんは敗れてしまいました。残念な結果ですが「全力でやった気持ちよさがある」と記事にはあります。そうなんだろうなあ、と思います。
この一連の小林さんの活動について、私は信念がある、と考えています。一方、猛烈に話はすっ飛びますが、インターネット上では、ただ単にギャラ目当てだと見下したり、そもそも大食いなんて倫理的に間違っていると批判したりする風潮があるような気がします。悪口のほうが幅を利かせるメディアなんでしょう。
それよりも自分は、どちらかといえばポジティブに評価したいし、多様な考え方を受け入れたいし、インターネットもそういう場所であってもらいたいと思います。
2008年7月1日
(HK)香港特別行政区成立記念日
というわけでお休みです。今日は晴れたので外のプールに行きました。
でもやっぱり今年は雨が多いような気がします。この前なんかは台風直撃でシグナルが出て、会社も休みになったぐらいです。
でもやっぱり今年は雨が多いような気がします。この前なんかは台風直撃でシグナルが出て、会社も休みになったぐらいです。
2008年6月22日
(HK)二週間ほど続いた雨の日がようやく終わり
晴れの日が戻ってきました。昨日は東莞に出張で、暑い日でした。今日は香港にいます。
真昼に外で見上げると、太陽が真上にいました。足元にほんのわずかだけ影ができます。北回帰線を意識します。もうそろそろ当地で五年が経ちます。
いつものように休日出勤して、人気のないオフィスで契約更新の書類を読みました。
真昼に外で見上げると、太陽が真上にいました。足元にほんのわずかだけ影ができます。北回帰線を意識します。もうそろそろ当地で五年が経ちます。
いつものように休日出勤して、人気のないオフィスで契約更新の書類を読みました。
2008年4月5日
(HK)記録
先にお知らせします。この文、長くなってしまいました。
基本的に個人的なことがらを、私はここで細々と書きつづっています。自分で言うのもなんですが、そもそも目的なんてあいまいなんです。でも、ここにこのことを書いておかないといけない気がしています。
日本人の上司が1月に亡くなりました。本当に急でした。前の日まで普通に働いていたぐらいでした。事故ではありません。確かに精力的に動く人で、出張であちこちを飛び回る人で、「大変だなあ、お疲れだろうなあ」と察することはありましたが、まさかその日その朝心臓が動きを止めるとは。
日本にいたときも、十数年前にアメリカに飛び出してからも、ひたすらこの業界の一線で働いてきたすごい技術者と、こういう形でお別れすることになるとは思ってもいませんでした。残されたご家族のことを思うと、たまらない気持ちになります。
書きにくいのでここからAさんとします。
私が前の会社を辞めることにしたとき、いくつかの選択肢がありました。その中で、ある人が「Aさんがいる」という理由で香港を勧めてくれました。その人に取り持ってもらってAさんに会ったときに、とても歓迎してもらったことを覚えています。Aさんの名前は前の会社にいたときから知っていたのですが、実際にお会いしたのは転職する時がはじめてでした。 そういう人のつながり、縁で今に至っています。
Aさんは今思えば激務で、そしてどんどんと昇進しつづけました。入社当時はAさんと直接仕事のやり取りをすることが多かったのですが、やがてそれはだんだんと減っていきました。仕事を任されるようになったと私は勝手に解釈し、あまり気にはかけていませんでした。大事な用件のときに報告しに行くと、切れのある答えがいつも返ってきましたし。
でも亡くなってしまいました。張り合いがなくなりました。少し前から実務の面では香港人の上司がいて、彼は優秀で私の働き振りを評価してくれているのですが、Aさんがいないというのは寂しいです。Aさんと香港人の上司で技術的な路線が若干違うというのもあります。私はAさんに近かったのです。
それよりも、「海外で働く日本人」の大変さだとかやりがいだとかをAさんがわかってくれていた……ということが大きいです。香港人の上司がいくら良くても、そういう役割を彼に求めるわけにはいきません。
Aさんに香港に招かれた技術者は何人もいます。その中で私はおそらく一番若いです。ある技術分野でAさんに近かったので、今は最後の弟子だと勝手に思っています。この業界のことなら本当に何でも知っている人でした。記憶力がずば抜けていました。かなりの人数の関係者の電話番号を暗記していたというエピソードもあります。昼夜問わず電話がかかってくることも、香港に来た当時はありました。
亡くなってから、ふと気になってAさんの名前でググってみました。「おくやみ」が出ていた形跡がありません。死後に日経新聞に載ることにどれほど意味があるかというと、疑問なのですが。でも、もし東証に上場している日本の会社の役員だったら、たとえそれがどんなに小さい会社の場合でも載せるでしょうし、いやこうした議論がとても矮小なものであることは分かっています。
しかし本当にすごい技術者だったんです、そういう人と私は働いていたんです。改めて権威から裏づけされなくてもその事実は変わらない、それはそうなのですが、とても大きな存在だったので、私はそれを何とかして「喪失の補償」したいと願っている、そう自分で自分を分析します。カッコ内、適当な言葉が思い当たりません。
ここにこういう文章を書いているのもその一環でしょうし。そもそも心の中に秘めておいて、思わせぶりなことをここに書き散らさなくても良かったわけですし。だとすると、冒頭にもどりますが、このように気持ちの整理をつけるということが文章の目的なんでしょう。
ググった結果ですが、引っかかったのはAさんが出したいくつもの特許だけでした。残念ながら私はAさんと共同で特許を出したことがなく、そもそも特許自体を書いたことがありません。関係ないですが、Aさんと撮った写真もありません。
最後の弟子なら、それらしく精進しないといけない、と思っています。
基本的に個人的なことがらを、私はここで細々と書きつづっています。自分で言うのもなんですが、そもそも目的なんてあいまいなんです。でも、ここにこのことを書いておかないといけない気がしています。
日本人の上司が1月に亡くなりました。本当に急でした。前の日まで普通に働いていたぐらいでした。事故ではありません。確かに精力的に動く人で、出張であちこちを飛び回る人で、「大変だなあ、お疲れだろうなあ」と察することはありましたが、まさかその日その朝心臓が動きを止めるとは。
日本にいたときも、十数年前にアメリカに飛び出してからも、ひたすらこの業界の一線で働いてきたすごい技術者と、こういう形でお別れすることになるとは思ってもいませんでした。残されたご家族のことを思うと、たまらない気持ちになります。
書きにくいのでここからAさんとします。
私が前の会社を辞めることにしたとき、いくつかの選択肢がありました。その中で、ある人が「Aさんがいる」という理由で香港を勧めてくれました。その人に取り持ってもらってAさんに会ったときに、とても歓迎してもらったことを覚えています。Aさんの名前は前の会社にいたときから知っていたのですが、実際にお会いしたのは転職する時がはじめてでした。 そういう人のつながり、縁で今に至っています。
Aさんは今思えば激務で、そしてどんどんと昇進しつづけました。入社当時はAさんと直接仕事のやり取りをすることが多かったのですが、やがてそれはだんだんと減っていきました。仕事を任されるようになったと私は勝手に解釈し、あまり気にはかけていませんでした。大事な用件のときに報告しに行くと、切れのある答えがいつも返ってきましたし。
でも亡くなってしまいました。張り合いがなくなりました。少し前から実務の面では香港人の上司がいて、彼は優秀で私の働き振りを評価してくれているのですが、Aさんがいないというのは寂しいです。Aさんと香港人の上司で技術的な路線が若干違うというのもあります。私はAさんに近かったのです。
それよりも、「海外で働く日本人」の大変さだとかやりがいだとかをAさんがわかってくれていた……ということが大きいです。香港人の上司がいくら良くても、そういう役割を彼に求めるわけにはいきません。
Aさんに香港に招かれた技術者は何人もいます。その中で私はおそらく一番若いです。ある技術分野でAさんに近かったので、今は最後の弟子だと勝手に思っています。この業界のことなら本当に何でも知っている人でした。記憶力がずば抜けていました。かなりの人数の関係者の電話番号を暗記していたというエピソードもあります。昼夜問わず電話がかかってくることも、香港に来た当時はありました。
亡くなってから、ふと気になってAさんの名前でググってみました。「おくやみ」が出ていた形跡がありません。死後に日経新聞に載ることにどれほど意味があるかというと、疑問なのですが。でも、もし東証に上場している日本の会社の役員だったら、たとえそれがどんなに小さい会社の場合でも載せるでしょうし、いやこうした議論がとても矮小なものであることは分かっています。
しかし本当にすごい技術者だったんです、そういう人と私は働いていたんです。改めて権威から裏づけされなくてもその事実は変わらない、それはそうなのですが、とても大きな存在だったので、私はそれを何とかして「喪失の補償」したいと願っている、そう自分で自分を分析します。カッコ内、適当な言葉が思い当たりません。
ここにこういう文章を書いているのもその一環でしょうし。そもそも心の中に秘めておいて、思わせぶりなことをここに書き散らさなくても良かったわけですし。だとすると、冒頭にもどりますが、このように気持ちの整理をつけるということが文章の目的なんでしょう。
ググった結果ですが、引っかかったのはAさんが出したいくつもの特許だけでした。残念ながら私はAさんと共同で特許を出したことがなく、そもそも特許自体を書いたことがありません。関係ないですが、Aさんと撮った写真もありません。
最後の弟子なら、それらしく精進しないといけない、と思っています。
2008年3月26日
(HK)Sinu-Aidと桜
先月は風邪を引きました。こちらの風邪は喉にきます。そして長引きます。今回は二度病院に行きました。喉のなおりが遅かったので、薬を替えてもらったのが二回目です。
病院からいつももらう薬があって、Sinu-Aidといいます。死ぬAid(手助け)という、日本人的に「おいおいそれはないだろう」というネーミングですが、鼻水が良く止まります。成分的にはフェニレフリン(PHENYLEPHRINE)とプソイドエフェドリン(PSEUDOEPHEDRINE)だそうです。調べました。
突然花見に行きたくなりました。桜咲く中をうかれて歩いてみたいです。
私の場合、大学に入るまでは花見なんか興味がなくて、でも大学の新人歓迎が花見で、その時に初めていいものだな、と思いました。妻の住んでいた町は桜が有名な土地で、山も川岸も全部桜が咲きます。春の終わりごろに付き合い始めましたから、桜の季節が来るまでちょうど一年ぐらいです。そんな時期に視界いっぱいの桜を見て、私はずいぶん人生を損してきたような気がしました。分かりやすく浮かれていました。
今は香港にいます。決して日本が恋しくなったわけではありません。でも普段の生活の中で、自分が歳をとっているということに気付いた瞬間、桜の記憶が心の中に入り込んでくるのです。それは例えば妻に向かって「死ぬAidもらったよ」と笑いながら報告する時だったりします。
そういえばうちの子供はずっと香港なので花見を知りません。見せてやりたいなあと思います。
日本の本を扱っている本屋に行って、表紙に惹かれて、桜を見に行く旅の特集を組んでいる雑誌を買ってしまいました。旅もいいですね。桜前線を追いかけて一ヶ月近くを旅についやす人がいるそうですが、一ヶ月とは言わなくても一週間ぐらいやってみたいなあ、でもそんなことはできないよなあ、なんて読んでいるうちに少し妄想入りました。
病院からいつももらう薬があって、Sinu-Aidといいます。死ぬAid(手助け)という、日本人的に「おいおいそれはないだろう」というネーミングですが、鼻水が良く止まります。成分的にはフェニレフリン(PHENYLEPHRINE)とプソイドエフェドリン(PSEUDOEPHEDRINE)だそうです。調べました。
突然花見に行きたくなりました。桜咲く中をうかれて歩いてみたいです。
私の場合、大学に入るまでは花見なんか興味がなくて、でも大学の新人歓迎が花見で、その時に初めていいものだな、と思いました。妻の住んでいた町は桜が有名な土地で、山も川岸も全部桜が咲きます。春の終わりごろに付き合い始めましたから、桜の季節が来るまでちょうど一年ぐらいです。そんな時期に視界いっぱいの桜を見て、私はずいぶん人生を損してきたような気がしました。分かりやすく浮かれていました。
今は香港にいます。決して日本が恋しくなったわけではありません。でも普段の生活の中で、自分が歳をとっているということに気付いた瞬間、桜の記憶が心の中に入り込んでくるのです。それは例えば妻に向かって「死ぬAidもらったよ」と笑いながら報告する時だったりします。
そういえばうちの子供はずっと香港なので花見を知りません。見せてやりたいなあと思います。
日本の本を扱っている本屋に行って、表紙に惹かれて、桜を見に行く旅の特集を組んでいる雑誌を買ってしまいました。旅もいいですね。桜前線を追いかけて一ヶ月近くを旅についやす人がいるそうですが、一ヶ月とは言わなくても一週間ぐらいやってみたいなあ、でもそんなことはできないよなあ、なんて読んでいるうちに少し妄想入りました。
2008年2月23日
(HK)KOHKIに勝ちたい
NOKIAの携帯に入っている「落ちもの」ゲームを、妻が熱心にプレイしていました。試しにやらせてもらったところ、操作性が悪く、しかも消える条件が何だか意味不明で、「落ちもの」特有の爽快感などまるでありませんでした。聞いてみたら今までこういうゲームをしたことはないというので、それは大変だと勝手に思い込み、この前日本に行った時「ぷよぷよ」を中古屋で探して買ってきました。「落ちもの」っていうのはこういうものなんだよ、ってことを言いたくて。つまり、趣味の押し付けですね。
で、紹介する前にまずは自分でやっておかないと、ということで始めてみました、ぷよぷよを。ゲームボーイアドバンスのかなり前のものです。DSを買ってから放っていたアドバンスを引っ張り出してきて、ぷよぷよ専用機に仕立て上げました。
久しぶりに落とすぷよはまさに予想どおりで、二連鎖、三連鎖と組んでずいぶんと得意げになりました……というか、自分でぷよぷよのソフトを所有していたわけではなく、人のうちでプレイさせてもらった経験があるだけなので、その程度の腕前でした。ぷよぷよ好きが聞いてあきれるレベルの低さでした。
こんなことじゃいけない、と妙に発奮して色々組み方を学習しました。インターネットって便利ですね。昔はそんな情報などなかった……というのはありがちな昔話です。掲載されている技の数々に感動しました。そしてそれらを実践しようと努力しています。段々上手になってきています。
後で気付いたのですが、買ったぷよぷよにはランキング機能が付いていて、良い成績をおさめた場合に名前を記録できるようになっていたのでした。説明書無しで買ってきたので分かりませんでした。というより、もとの持ち主がランキングの上位を占めていたため、名前入力の機会がなかったのです。私が上達してもとの持ち主の得点を上回って、はじめてその画面が現れたのです。私は5位でした。見ると1位から4位に
1th KOHKI
2nd KOHKI
3rd KOHKI
4th KOHKI
と。打倒KOHKI。
彼のようにやりこんだならば、きっと勝てるはずです! いやしかし、どなたかは存じ上げませんが、かなりのプレイヤーとお見受けいたします。
はい、元はといえばこのぷよぷよ、人のために買ってきたのですが、今やそれは二の次になりつつあります。
で、紹介する前にまずは自分でやっておかないと、ということで始めてみました、ぷよぷよを。ゲームボーイアドバンスのかなり前のものです。DSを買ってから放っていたアドバンスを引っ張り出してきて、ぷよぷよ専用機に仕立て上げました。
久しぶりに落とすぷよはまさに予想どおりで、二連鎖、三連鎖と組んでずいぶんと得意げになりました……というか、自分でぷよぷよのソフトを所有していたわけではなく、人のうちでプレイさせてもらった経験があるだけなので、その程度の腕前でした。ぷよぷよ好きが聞いてあきれるレベルの低さでした。
こんなことじゃいけない、と妙に発奮して色々組み方を学習しました。インターネットって便利ですね。昔はそんな情報などなかった……というのはありがちな昔話です。掲載されている技の数々に感動しました。そしてそれらを実践しようと努力しています。段々上手になってきています。
後で気付いたのですが、買ったぷよぷよにはランキング機能が付いていて、良い成績をおさめた場合に名前を記録できるようになっていたのでした。説明書無しで買ってきたので分かりませんでした。というより、もとの持ち主がランキングの上位を占めていたため、名前入力の機会がなかったのです。私が上達してもとの持ち主の得点を上回って、はじめてその画面が現れたのです。私は5位でした。見ると1位から4位に
1th KOHKI
2nd KOHKI
3rd KOHKI
4th KOHKI
と。打倒KOHKI。
彼のようにやりこんだならば、きっと勝てるはずです! いやしかし、どなたかは存じ上げませんが、かなりのプレイヤーとお見受けいたします。
はい、元はといえばこのぷよぷよ、人のために買ってきたのですが、今やそれは二の次になりつつあります。
2008年2月7日
(JAPAN)旧正月おめでとうございます。
今日は旧暦の一月一日です。お休みをとって家族と一緒に日本に来ています。寒いですね。
こちらに来たのは先週の土曜日です。その日の香港もかなり寒く感じられましたが、一方ここでは日中でも普通に10度を下回っているので、比べるべくもありません。
無事引越しは済みました。新しい部屋には満足していますが、二年後の次の更新のことが今から気がかりです。あと、新しい部屋は北向きになってとても寒いです。こちらは、まあ夏には長所になるだろうと楽観視しています。
仕事上で今大きな転機にいます。実際のところ毎日の活動という意味では全く変わりなくこなしています。けれども後から振り返ったならば、この時期のことは決して忘れないはずです。
今回は久しぶりに長期の休みです。そんな中、時々「働くとはどういうことか」なんてことをうじうじ考えています。
こちらに来たのは先週の土曜日です。その日の香港もかなり寒く感じられましたが、一方ここでは日中でも普通に10度を下回っているので、比べるべくもありません。
無事引越しは済みました。新しい部屋には満足していますが、二年後の次の更新のことが今から気がかりです。あと、新しい部屋は北向きになってとても寒いです。こちらは、まあ夏には長所になるだろうと楽観視しています。
仕事上で今大きな転機にいます。実際のところ毎日の活動という意味では全く変わりなくこなしています。けれども後から振り返ったならば、この時期のことは決して忘れないはずです。
今回は久しぶりに長期の休みです。そんな中、時々「働くとはどういうことか」なんてことをうじうじ考えています。
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